
北米で5人のシーク教徒殺害を計画:インドの情報機関が米国とカナダの主権を侵害
去年6月、カナダと米国でシーク教組織の指導者を狙った事件が相次いだ。殺人の指令はインド本国から、暗躍するスパイに発出されていた。北米で殺人計画の対象とされたターゲットは計5人に上り、1人(ハーディープ・シン・ニジャール氏)がカナダで殺された。米国では1件が未遂事件となり、あと3件の計画は実行を断念したようだ。
インドの情報機関が米国とカナダの主権を侵害して、秘密工作を実行に移すことは西側が進める「インド太平洋戦略」に衝撃を与えたと言っても過言ではない。
カナダのジャスティン・トルドー政権とインドのナレンドラ・モディ政権は互いに、相手国駐在の情報機関員の追放を発表、両国間の対立は当面、収拾が難しいようだ。他方、米国で起きた殺人未遂事件をめぐって、ジョー・バイデン米大統領はウィリアム・バーンズ中央情報局(CIA)長官らをインドに派遣、「静かな外交」で妥協策を探っているとみられる。
脅威を増す中国に対抗して、日米などは「クアッド」などでインドとの関係をこれまで強化してきが、想定外の事件発生がした。
ニジャールはなぜ狙われたのか
パンジャブ州でのシーク教徒の分離独立運動やテロ事件は1980年代に激化、1984年にはシーク教徒の聖地・黄金寺院に立てこもった過激派をインド政府軍が排除する事件が起きた。これに対してシーク教徒が強く反発、同年のインディラ・ガンディー首相の暗殺につながった。それほどインドにとっては大きい問題なのだ。反政府系の多数のシーク教徒がカナダなどに移住しており、モディ政権は今後ともこの問題で難しい対応を迫られそうだ。
インド当局は昨年、ニジャールの逮捕につながる情報に報奨金を出すと発表していた。2007年にパンジャブ州の映画館が爆破され、6人が死亡した事件に関与したとしているが、ニジャールは嫌疑を否定していた。
ニジャールは、インド国外内のシーク教徒にカリスタンの分離独立を支持するかどうかを問う非公式の住民投票を組織する団体に属していた。
この国際的な取り組みを促進する「パンジャブ住民投票委員会」は、住民投票を「パンジャブを解放する運動」と呼んでいる。この投票は法的拘束力をもたず、政府に対する権限もないが、すでに英国、イタリア、オーストラリア、カナダで実施されている。主催者側はパンジャブ州での投票も望んでいるが、インド政府の許可を得られるかは疑問だ。2025年までに世界中での投票結果をまとめて国連に提出し、そこでカリスタンの独立を訴える考えだという。直近の投票はバンクーバーで行われた。地元紙バンクーバー・サンは主催者側の話として、非常に多くの人が集まって数千人が投票できなかったことから、10月29日に2回目の投票日を設けなくてはならなくなったと伝えている。
分離運動に神経とがらせるインド
主催者側は、投票は平和的で民主的な取り組みだと説明している。だが、インド外務省の発表によるとモディはG20サミットでトルドーと会った際、これらの手続きは「カナダ国内の過激分子による反インド活動」だとして「強い懸念」を伝えたという。
インド外務省は声明で、ニジャールの殺害にインド政府が関与したとするカナダ側の非難は「ばかげており、意図があるもの」だと反発した。「インドの主権と領土の一体性を脅かし続けているカリスタンのテロリストや過激派」にカナダが避難場所を提供していると主張し、非難はそこから焦点をずらそうという試みだと断じた。
あわせて、インドに駐在するカナダ外交官1人を国外に追放する措置も発表した。カナダ側はこれに先立ち、インドの外交官1人を追放している。
犯罪者を秘密工作に使う愚かなインド政府
11月末にニューヨーク州南部連邦地裁で公表された起訴状には、ミステリアスな事件にみえて、同時に米側のオトリ捜査にも気付かないほど、滑稽な事実も明らかにされている。
米国での事件では、インド人ニキル・グプタ被告が嘱託殺人罪で起訴されている。起訴状では、被告を使ったインド政府職員が2023年、インド生まれで米国籍を持つ、ニューヨーク在住の弁護士・政治活動家を米国領土内で暗殺する計画を命じた。起訴状ではこの弁護士の氏名は明らかにされていないが、『ワシントン・ポスト』によると、ターゲットにされたのはNYに本部を置く「シーク教徒に正義を」という組織で活動する弁護士グルパトワント・シン・パンヌン氏。
計画を命じたインド政府職員は、インド政府機関職員で、安全保障およびインテリジェンスに責任を負う「現場上級官」と自称している。情報機関の指揮官とみられるが、起訴状では情報機関の名前は明らかにされていない。
今年5月ごろ、インド情報機関はグプタをリクルートした。シーク教徒の人口が多いインド北部パンジャブ州にはシーク教徒の主権国家「カリスタン」樹立を目指す分離独立運動の指導者に対する暗殺計画で協力を求めた。それがパンヌン氏だったということになる。
グプタ被告もインド人で、国際的な麻薬および武器の取引に関与してきた、とインド政府職員との通信で明らかにしている。インド政府職員は、グプタに殺人の準備作業で手伝えば、グプタがインドで犯した犯罪を「免罪する」と約束した。そもそもこの事件は、インド政府当局が、情報機関の秘密工作が何たるかも分からないような素人の犯罪者を脅して暗殺計画に関与させた、乱雑な工作のようだ。
計画に参加したグプタは、暗殺の実行者になるとみられる人物と接触した。起訴状は接触の方法を明記していないが、全体の記述からみて、オンラインでの接触とみられる。
この人物は、実際には「米国の法執行機関」に協力する「秘密の情報源」だったと起訴状は記している。さらにこの協力者から、殺し屋を紹介してもらった。
殺し屋も、米法執行機関のオトリ捜査員だった。インド政府職員はグプタが殺し屋に10万ドル(約1430万円)を支払うことに同意。6月9日ごろには前金としてUCに1万5000ドルを支払った。
他方、6月18日には、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のシーク教寺院の外で、マスクをした複数のガンマンがハーディープ・シン・ニジャール氏を射殺する事件が起きた。ニジャール氏はパンヌン氏と同じシーク教組織の分離独立運動の同志で、難民としてカナダに移住、カナダ国籍を取得していた。
翌19日、グプタは殺し屋に「ニジャールもターゲットだった」と認め、「われわれには非常に多くのターゲットがある」と言った。起訴状によると、インドが計画した殺人は、ニューヨーク、カリフォルニア両州で各1件、カナダで3件の計5件とみられる。
6月20日、インド政府職員はグプタに、次は「優先」と言い、グプタは「米国の法執行機関」の協力者に「早くやれ」と求めた。しかし、協力者も殺し屋も「ターゲットが不在」などといった言い訳を繰り返して実行が遅れた。6月30日になって、グプタは突然、インドからチェコに渡航。チェコ当局は米国の要請を受けて、グプタを逮捕したという。恐らく、グプタは米側によるオトリ捜査の現実に気が付き、インド当局から責任を問われる可能性もあって、逃亡したとみられる。米国とチェコが司法共助協定で合意すれば、グプタの身柄は米国に移送されることになる。インド政府の対米秘密工作はこれで失敗した。
インド政府の事件関与は解明でき、カナダと米国はインド政府を批判。
今度の事件はRAWが実行したとみられている。その最大の疑問は、事前に政府中枢の承認を得ていたかどうかだ。
ヒンドゥー至上主義者と言われるモディ首相を支えるドバル補佐官は、シーク教徒の動きを抑える強硬派とみられている。今度の事件前に、果たして、モディ首相やドバル補佐官がどれほどの情報を知らされていたかも問題になるだろう。
ニジャール氏殺害事件の捜査結果を得て、トルドー・カナダ首相は9月18日、ニジャール氏殺害の裏で「インド政府の関与を示す信頼できる疑いがある」と言明し、許しがたい主権侵害とも非難した。ほぼ同時にカナダ政府は、首都オタワ駐在のインド対外情報機関「調査分析局(RAW)」オタワ支局長パバン・クマル・ライ氏の国外追放を発表、インド側は疑惑を否定して強く反発し、駐ニューデリー・カナダ外交官を国外追放した。この外交官もカナダの情報機関の駐インド代表とみられる。インド国内での報道によると、カナダ側は証拠となる情報や文書をインド側と共有していないため、両国間の会談は進展がみられないという。
今度のパンヌン氏の事件で、米国家安全保障会議(NSC)のワトソン報道官は声明で、インド政府当局者がパンヌン氏殺害計画に関与した疑いについて「我々は最高レベルの直接的な対話でインド政府に懸念を表明した」と指摘し、インド政府を厳しく批判している。


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