(連載1)シリア情勢と日本のSNS
バッシャール・アル=アサド氏は、独裁者の次男として生まれたが、世継ぎは長男と決まっていたので、イギリスで眼科医として暮らしていた。当時の同僚は、真面目で平凡な眼科医であったと証言している。転機は、長男バースィル氏が突然の事故で急逝したことだった。独裁者の父親の跡継ぎに指名され、急遽シリアに戻ったのが、1994年のことだ。バッシャール氏は、当時28歳であった。私がロンドンで博士課程の学生をしている時期と、バッシャール・アル=アサド氏がロンドンで平凡な眼科医として勤務していた時代は重なっている。私は、バッシャール氏のニュースをロンドンで見たときのことをよく覚えている。バッシャール氏は、私の3歳年上で年齢が近い。そのため、彼がロンドンに少し先に留学に来ていて、そのままイギリスに残ってしまった、という経歴を持つ人物であったことが、印象に残った。そのような平凡ながら眼科医としての資格をイギリスで獲得した人物が、独裁者の息子であるという理由で本国に呼び戻されるという話に、なんとも言えない気持ちを覚えた。
私は最初にロンドンに来た時に学生寮に住んでいたが、生活費を節約するため相部屋にいた。その部屋のパートナーは、工学でインペリアル・カレッジ(理系ではケンブリッジとイギリスでトップを争う大学)の博士号を取得したイラク人だった。彼は学位を取得してもなお、周囲の助言もあり、研究生の地位などをつないでロンドンに居残り続けていた。当時、イラクのクウェート侵攻・湾岸戦争から、3年が経つ時期であった。イラクには、いつ解除されるかもわからない安全保障理事会の強制措置の権限を伴う苛烈な制裁が科せられ続けていた(当時の対イラク制裁は、あまりにも深刻な人道的な惨禍をイラクの一般国民に招きすぎたという理由で、今日では制裁の失敗例の一つとしてあげられるのが普通である)。しかし彼はイラク政府の奨学金で送り込まれた人物である。政府中枢のプロジェクトに貢献しなければならない。サダム・フセイン政権が、彼のイギリスへの亡命などを許すはずはなかった。彼本人も、イギリスに残り続けることができたらそれに越したことはないが、そんなことはできない、と呟いていた。何度もイラク政府から通知を受け、遂に脅迫めいた最後通牒を受けるに至り、決意を定めてイラクに帰国した。その後、私は彼とは連絡がとれなくなっている。
当時の私の頭の中では、バッシャール氏緊急帰国のニュースは、このイラク人のルームメイトの姿を思い出させるものがあった。シリアの独裁者の跡継ぎがロンドンで眼科医をしていた!というニュースは、当時のイギリスで大きく報道された。その当時のバッシャール氏の姿は、20代のロンドン生活に満足していた普通の青年のものであるように見えた。バッシャール氏は温和な性格である、とシリアでもイギリスでも報道されていた。独裁者の器ではない、という話だった。だがそこで人々が参照したのが映画『ゴッド・ファーザー』だ。穏健で知的な次男が、気性が荒い長男の死に直面して、マフィアの首領である父の跡継ぎになっていくストーリーだ。果たしてバッシャール氏も、『ゴッド・ファーザー』で次男役を演じたアル・パチーノのように、やがて独裁者として豹変していくのか、という視点が、話題であった。その後、2000年に35歳で大統領に就任したバッシャール氏は、映画を凌駕して、世界有数の苛烈な独裁者となっていく。特に2011年の「アラブの春」に伴う騒乱が、凄惨な戦争へと転換していく過程において、彼の配下で動いたシリア軍・警察などによって殺害された人々の数は、何十万人なのかわからない。シリア政府機関がさらに悪名高いのは、少しでも反政府的な態度を示す者がいれば、瞬く間に拘束して、苛烈な拷問を繰り返すことだ。その犠牲になった方々に対して持つ罪の重さは、計り知れないものである。(つづく)


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